「衣食足りて礼節を知る」
一度は耳にしたことがある、古代中国から伝わることわざです。 「生活に不自由がなくなって、初めて人は礼儀や節度をわきまえるようになる」という意味で、人間社会の発展における一つの真理として語り継がれてきました。
確かに、今日の日本は、歴史上のどの時代と比べても圧倒的に「衣食足りている」社会と言えるでしょう。しかし、私たちが手にしたものは、本当に「礼節」だったのでしょうか。
SNSのタイムラインを眺め、ニュースサイトのコメント欄を覗くたびに、私の頭には皮肉な言葉が浮かびます。
「衣食足りて、銃を知る」
これは、決して大げさな表現ではないのかもしれません。
豊かさがもたらした「見えない銃」
もちろん、私たちが手にしている「銃」とは、物理的な武器のことではありません。それはもっと巧妙で、もっと厄介な、「言葉の銃」であり「無関心の銃」です。
考えてみてください。
ほんの数十年前まで、他人の生活を詳細に知る機会は限られていました。しかし今はどうでしょう。SNSを開けば、友人や、会ったこともない有名人のきらびやかな生活が、これでもかと目に飛び込んできます。
満たされた生活を送っているはずなのに、なぜか心は満たされない。自分と誰かを比較し、嫉妬や焦りが生まれる。その燻った感情の捌け口として、私たちは匿名という盾に隠れ、言葉の弾丸を装填するのです。
- 一つの失言を執拗に叩き、相手の社会的生命を奪おうとする「正義」という名の銃口。
- 自分とは違う価値観を持つ人を嘲笑し、レッテルを貼り、排除しようとする分断の銃弾。
- 遠い国の悲劇や、すぐ隣で苦しんでいる人の声に「自分には関係ない」と蓋をする無関心という名の安全装置。
これらはすべて、「衣食足りている」からこそ生まれる、新しい形の暴力なのかもしれません。生きるのに必死だった時代には、他人を攻撃する暇も、比較する余裕もなかったはずです。豊かさは、私たちに「銃」を手に取り、引き金を引く時間を与えてしまったのでしょうか。
私たちが置き忘れた「礼節」の本当の意味
ここで、もう一度原点に立ち返りたいのです。「衣食足りて礼節を知る」の「礼節」とは、一体何だったのでしょうか。
それは、単に堅苦しいマナーや作法のことではないはずです。
「礼節」の核心とは、「他者への想像力」に他なりません。
- この言葉を受け取った相手は、どう感じるだろうか?
- なぜこの人は、こういう行動を取ったのだろうか?その背景には何があるのだろうか?
- 自分が見ている世界だけが、すべてではないのではないか?
自分の生活が満たされているからこそ、その視線を少しだけ外に向け、他者の立場や感情に思いを馳せる。その精神的な余裕こそが、「礼節」の正体ではないでしょうか。
しかし、現代の私たちは、その想像力を働かせる前に、反射的に「銃」を構えてしまいます。0か100か、白か黒か、敵か味方か。あまりにも早く、あまりにも簡単に、結論を出してしまう。その思考のショートカットこそが、社会から潤いを奪い、人々を疲弊させている原因の一つだと感じています。
「銃」を置き、私たちは対話の手を差し伸べられるか
「衣食足りて銃を知る」という現実は、確かに私たちの社会の一側面を的確に捉えています。しかし、私は絶望だけで終わりたくありません。なぜなら、豊かさは「銃」だけでなく、新しい可能性も与えてくれているからです。
- 豊かさがあるからこそ、遠い国の問題を知り、支援の手を差し伸べることができる。(寄付やクラウドファンディング)
- 豊かさがあるからこそ、多様な価値観に触れ、自分の世界を広げることができる。(インターネットや書籍)
- 豊かさがあるからこそ、自分の専門知識や経験を、誰かのために役立てることができる。(情報発信やボランティア)
「銃」を手に取るか、それとも対話の手を差し伸べるか。その選択権は、私たち一人ひとりに委ねられています。
まとめ:あなたが今日、手にするものは何か
「衣食足りて礼節を知る」という言葉が、理想論に聞こえる時代かもしれません。しかし、だからこそ、私たちは意識的に「礼節」を選び取る必要があるのです。
この記事を閉じたら、少しだけ想像してみてください。
あなたがこれからSNSに書き込むその一言は、誰かの心を温めるスープになるでしょうか。それとも、誰かの胸を撃ち抜く弾丸になるでしょうか。
私たちが手にすべきは、他者を傷つけるための冷たい「銃」ではありません。他者を理解しようと努める、温かい想像力という名の「礼節」であるはずです。その小さな選択の積み重ねが、「衣食足りて銃を知る」時代から、再び「衣食足りて礼節を知る」社会へと、私たちを導いてくれると信じています。
ここまで読んでくださりありがとうございました!では!
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